私たちは、
思考の仕方を少し変えるだけで、
人生のほぼすべての出来事を
相対的に見ることができます。
たとえば、
今の仕事がつらい
→ でも10年後には笑い話かもしれない
今の失敗が致命的に思える
→ でも歴史全体から見れば誤差かもしれない
今の価値観が正しい気がする
→ でも国や時代が違えば全く違うかもしれない
時間軸を伸ばせば、
ほとんどの出来事は相対化できます。
また、
主語の範囲を広げても同じことが起きます。
「私」にとって最悪の出来事
→ でも「家族」にとっては最善だったかもしれない
「この会社」にとっての失敗
→ でも「業界全体」では成功かもしれない
「この国」にとっての悲劇
→ でも「人類史」では進歩かもしれない
このように、
ほとんどのことは、
時間軸や主語の範囲を変えるだけで、
いくらでも相対化できてしまいます。
この力は、
思考としてはとても高度です。
でも、
ここまで相対化を進めると、
必ずある地点に辿り着きます。
「結局、
何を大事にしても
同じなんじゃないか?」
この状態に入ると、
人生は一気に“軽く”なります。
でも同時に、
何も引っかからず、
何も積み上がらず、
何も意味を持たなくなっていきます。
これが、
Eigen が言う
「ニヒリズムの谷」です。
それでも、人は何もかもを
本気では疑えない
ここで重要なのが、
次の事実です。
それでも私たちは、
何もかもを
本気では疑えない。
なぜなら、
私たちの意識の中には、
どうしても残ってしまうものが
あるからです。
理屈抜きで、
楽しかった・嬉しかった経験
なぜか分からないけど、
あの時間は本当に楽しかった
意味なんてなくても、
あの瞬間は確実に生きている感じがした
あれをやっている時だけは、
評価も承認も関係なかった。
これらは、
「それも錯覚だよ」
と言うことはできます。
でも、
それでも
「楽しかったという事実」
そのものは消えません。
生まれの偶然性という、
どうにもならない事実
- この国に生まれた
- この時代に生まれた
- この身体で生まれた
- この性格で生まれた
- この親のもとに生まれた
- これらはすべて、
一切、選んでいません。
そして、
いくら疑っても、
いくら意味づけしても、
変えられません。
これは、
理論以前の「所与」です。
現象学的アプローチとは
何をしているのか?
ここでやっと、
Eigen の立場がはっきりします。
現象学的アプローチとは、
何でも相対化できてしまう世界の中で、
それでもなお、
相対化しても消えないもの、
疑ってもしょうがないものを、
意識の中から
そのまま掘り出していく方法です。
Eigen がやっているのは、
たったこれだけです。
価値観を疑う
目標を疑う
理想像を疑う
軸っぽいものを疑う
他人由来の物語を疑う
- ここまで疑い尽くしたあとで、
- それでも、
なぜか残ってしまうもの
何度ニヒリズムに落ちても
戻ってきてしまうもの
理屈では説明できないのに
捨てきれないもの
これを、
ひたすら観察します。
ここで、
一つの決定的な事実に
ぶつかります。
それらを
本気で外してしまったら、
今ここで
こうして考えている
この意識状態そのものが、
もはや成立しないのではないか?
ここから、
Eigen 独自の概念が
必要になります。
底板(そこいた)とは何か?
― なぜ、それを疑うことは
実存的に意味がないのか ―
Eigen では、
この「疑ってもしょうがないもの」を
まとめて、こう呼びます。
底板(そこいた)
底板とは、
それを外してしまえば、
今の自分の意識状態そのものが
成立しなくなるか、
まったく別物に変わってしまうような、
相対化不能な意味の基盤です。
なぜ、底板は
「疑ってもしょうがない」のか?
底板は、
論理的には疑えます。
それも刷り込みでは?
それも錯覚では?
それも物語では?
全部、言えます。
でも、
ここで決定的に重要なのは
この一点です。
それを
本気で外した状態では、
もはや、
今ここでこれを疑っている
「この私」そのものが
成立しない。
「意味がない」とは、
このレベルの話である
底板を疑うことは、
論理的には可能です。
でも、
実存的には意味がありません。
なぜなら、
底板を外した世界では、
その底板を疑っていた
“この私”そのものが消えるか、
まったく別の意識状態に
変わってしまうからです。底板(そこいた)は、
前提ではなく「構成要素」
多くの思想は、
価値観や信念を
「前提」として扱います。
そして、
「その前提を疑え」
「その前提を書き換えろ」
と言います。
でも Eigen は、
この立場を取りません。
底板(そこいた)は、
前提ではなく、
そもそも
今の意識状態を
物理的に構成している
部品そのものです。
だから、
それを外したら、
“今の私”が
壊れるのは当たり前。
底板(そこいた)を
構成するもの
Eigen は、
底板を
次の3要素の束として捉えます。
① 感情事実(Emotional Facts)
理屈や物語とは無関係に、
その人の意識の中に
「確かに起きてしまった」
感情の事実。
楽しかった
嬉しかった
悔しかった
生きている感じがした
それが錯覚かどうかは
どうでもいい。
「そう感じてしまった」
という事実そのものが、
すでに底板の一部。
② 所与条件(Given Conditions)
その人が一切選ばずに
投げ込まれてしまった、
人生の初期条件。
国・時代・文化
親・家庭環境
身体・性別・能力
気質・性格傾向
これらは、
どう意味づけしても、
どう再解釈しても、
「なかったこと」にはできない。
③ 意味反応性
(Meaning Reactivity)
なぜかそれにだけ
異常に反応してしまう、
意味の偏り。
なぜか「不公平」にだけ
異常にキレる
なぜか「承認」にだけ
人生を賭けてしまう
なぜか「才能の話」にだけ
深く落ち込む
これは、
性格でも価値観でもなく、
もっと根っこの
反応パターン。そしてこの偏りは、
①感情事実 と
②所与条件
のどちらか、
もしくは両方に
根を持っています。
底板(そこいた)と
軸=物語の関係
ここで、
あなたの思想と
完全に接続します。
軸とは、
底板(そこいた)の上に、
その人なりに
どうしても立ち上がってしまう
人生の物語です。
軸がある人生のほうが、
良し悪しはあれ、
ほぼ確実に意味が大きくなる。
でも同時に、
底板はあっても、
物語(軸)が
立ち上がらない人もいる。
Eigen は、
この不都合な可能性も
誠実に含みます。
Eigen の立ち位置(最終)
何でも相対化できる、
という事実を
誠実に引き受ける。
でも同時に、
それでも相対化しきれない
何かがある、
という事実からも
逃げない。
その「逃げきれない何か」
= 底板(そこいた)の上に、
人生の軸=物語が
立ち上がるかどうかを
見に行く。
それが、
Eigen の現象学的アプローチです。
